苦い滑落の体験
もうすぐ、ゴールデンウィークです。この時期の天候は厳冬期の厳しさはなく、雪山登山の対象とされる山々も、「残雪期」というシーズンとなって目指しやすい印象です。
しかしそのいっぽうで、遭難事故が増える時期でもあります。特に多い遭難原因は、滑落です。この時期は朝のうちは雪が凍りついてアイスバーンのようになったり、晴れた日中は気温が上がり、逆に雪がグズグズになることも。いずれも転倒の原因となる雪の状態です。そして残雪期の山では、転倒はそのまま滑落に結びつくことが少なくありません。
実は私も、残雪期の山で滑落事故を起こした、とても苦い経験があります。今から8年前、2008年5月4日のことでした。
その日、目指した山は北アルプスの奥穂高岳。ルートは岳沢を起点に、南稜へ。核心部となるトリコニーの岩場を順調に登り、奥穂高岳の頂上に立ったのは午前9時頃。そこから吊尾根を縦走し、前穂高岳にも登頂。下山は残雪期には一般的な、奥明神沢ノコルを経由して奥明神沢を下るコースへと向かいました。
前穂高岳を後にして、急な雪面を下った尾根上の小ピークの先が、思いのほか急に切れ落ちていることに違和感が。ルートを間違った可能性も頭をよぎったものの、改めて周囲を確かめることが面倒に思え、後ろ向きになってそのまま下ってしまうことにしました。
ところが、3歩も下ったところでしょうか。ドン!という鈍い音と共に、グズグズだった足元の雪が、ごっそりと崩れ落ちてしまったのです。同時に私の体も落下。背中が岩に激突し、宙を回転しながら雪面に叩きつけられました。これで止まったのか……? と思ったのもつかの間、体はすぐにその雪面を滑り出したのです。必死に滑落停止の体勢をとって、ピッケルのピックを雪面に突き立てました。けれども軟らかな雪にピックは効かず、ズルズルと雪を切るばかり。体はどんどん、滑落を続けていきます。
その時、かつて私に対して雪上訓練の指導をしてくれた、山岳会の会長の言葉を思い出しました。
「滑落停止をしてどうやっても止まらないときには、雪面に片足を突き立てろ! 骨が折れるかもしれないが、そのまま滑落を続けるよりましだ」
その言葉通りに右足を力いっぱい雪面に突き刺すと、周囲の雪が一気に固まってきて、右足にぶら下がるような姿勢で滑落は止まりました。
北アルプス・奥穂高岳付近から吊尾根を隔てて見た前穂高岳。こういった稜線を歩く場合は、滑落停止技術は必須です(写真=木元康晴)
残雪期の山での滑落による遭難を防ぐには?
まず大切なのは、その日の気温を予想し、雪質もしっかり見極めて、悪い状態を避けるということでしょう。雪がアイスバーンになりそうな時は早朝の行動を避け、逆に雪がグズグズになりそうな時には午後に急傾斜の雪面の通過を避けるような、臨機応変な行動を心掛けることが大切です。
雪の山で確実に行動できる、歩行技術も必須のものです。
特に森林限界を超える山では、万が一に備えての、ロープワークと滑落停止技術も事前に習得しておくべき。装備もピッケルと、アンチスノープレートを装着した10本以上の爪のあるアイゼンが必要です。近ごろはバランスをとりやすいからという理由で、ダブルストックで歩く登山者も時折見かけますが、滑落に対してストックは無力です。森林限界以上では、必ずピッケルを使いましょう。
ところで滑落を止めた私はどうなったかというと、背中が岩に激突した際に肋骨が折れ、その断面が左肺を突き破って呼吸困難な状態に。けっきょく長野県警のヘリコプターに救助されて、入院生活を送ることになったのです。
それまで漠然と思っていた、自分は遭難しないのではないか、という根拠のない考えを打ち破った、心に刻み込まれる滑落の体験でした。
(文=木元康晴/登山ガイド)