『人を襲うクマ』(羽根田 治)
連載第3回(著者=小林千穂/山岳ライター・編集者)
定説を覆すクマの襲撃
みなさんは山でクマに会ったことがあるだろうか? 私は遠くの斜面で見かけたことはあるが、安全圏でのことで、至近距離で見たことは一度もない。山の先輩からは「それだけ山に行っているのにその程度であるはずはない。よっぽど鈍感なんじゃないか?」と笑われたことがある。それもあるかもしれないけれど、単に運がよかっただけのことだと思う。
ちょうど私は今、熊野古道の伊勢路を歩いている。紀伊山地の麓に続く道だ。峠道ではクマの目撃情報が寄せられているところもあり、長距離の山道に入る前に、最近のクマ事情について知っておこうと本書を開いた。
本書は1970年7月に北海道カムイエクウチカウシ山でヒグマが大学生を襲った事故をはじめとし、秩父の猟師のインタビュー、近年のクマ襲撃事件、そしてクマの生態と4つの章で構成されている。
カムイエクウチカウシ山の事例は福岡大生3人が次々とクマに殺されるという凄惨な事故として、50年が経とうとする今も登山者に語り継がれている。私も同じ日高山脈の幌尻岳を登る前に事故の概要を調べ、その悲惨さに背筋が凍りついた。今回、その詳細を改めて読み、特にヒグマが多いといわれる七ツ沼カール付近の稜線で、背丈を越える笹ヤブをかき分けて進む時など、笹に触れる手の先にヒグマがいるかもしれないと、恐怖と戦いながら進んだ経験を思い出した。
私がもっとも注目したのは第三章の「近年のクマ襲撃事故」である。ここでは最近の6つの事故が掲載されている。日ごろ、山の事故を防ぐには、過去の事例からよく学ぶことだと思っているが、本書で紹介されている、実際にクマに襲われた方々の話はリアルでたいへん参考になる。これを読むと「クマは臆病で、刺激しなければ先に逃げるものだ」とか「ほかにも登山者がたくさんいるからクマは出ない」などといった定説を覆す事例もあった。登山者が多くいた休日の奥多摩・川苔山で襲われた人の話は衝撃だったし、冬眠していると思いがちな12月末の仙ノ倉山での事例にも驚いた。実際、上越国境の仙ノ倉山とはだいぶ気候が違うが、私が歩いている伊勢路でも12月24日にクマの目撃情報があったという警告表示も見かけた。また、クマの力や俊敏さは私の想像を超え、ストックなどではとても応戦できないことを知った。
そして、この本にもアウトドアショップを営む男性の経験談が載っているが、私の周りの山のベテランの中にもクマに襲われた人がいる。クマとの事故は偶発的で、山の経験の有無はあまり関係がないと、改めて思い知った。
一方で、ツキノワグマの大量出没といわれる事態がほぼ2年に一度の割合で起こっており、それらの年には2000~4000頭のツキノワグマが捕獲され、殺処分になっている(本書より)ことも忘れてはならないと思う。クマに会えば、自分が傷つく恐れがあるのはもちろんだが、相手のクマの命を奪うことにも繋がりかねないのだ。
お互いが不幸となるクマとの事故を防ぐには、会わないようにすることが一番である。自分はクマに会わないだろう、クマ鈴をつけているからだいじょうぶ、などと安心しないで、こちらが常に注意を払わなければならないことをこの本は教えてくれる。人がクマに対して無知であるがゆえに起きる事故もあるかもしれない。この本を読むことで、クマを知るきっかけになるだろう。